この日――千尋は手紙が気がかりで仕事に集中出来なかった。来店する男性客は愚か、出入りの業者の男性まで全てが青い薔薇の送り主ではないかと思うと、どうしても対応がぎこちなくなってしまう。そんな千尋の様子を中島と渡辺は心配そうに見ていた。****――18時渡辺と早番の中島の勤務終了時間である。「ごめんね。千尋ちゃんを残して帰るの心配なんだけど、これから町内会の会議があるから参加しなくちゃいけないのよ」渡辺は申し訳なさそうに謝った。「そんな、私個人の問題で渡辺さんにご迷惑かける訳にはいきませんから。あ、そうだ」千尋は急いでロッカールームに行くと紙の手提げ袋を持ってすぐに戻ってきた。「これ、昨日お借りしたタッパと私が焼いたクッキーです。肉じゃがとても美味しかったです。ありがとうございます」「まあ!千 尋ちゃんの手作りクッキー? ありがとう! 後で家族と一緒に食べるわ」渡辺はにっこり笑って受け取った。「あ、ちゃんと店長の分もありますからね。デスクに置いてあるので帰る時に持って行って下さい」「ありがとう、青山さん」渡辺が紙袋を持って帰っても中島はまだ帰ろうとしない。店の奥のPCに向かって作業をしている。それを見かねた千尋が声をかけた。「あのー店長はお帰りにならないんですか?」「う~ん……ちょっと残務処理があるからね。今日は最後まで青山さんと店に残るわ。それに青山さんを1人で残しておくの心配だし。実はね、人事に掛け合って、もう少し人員を増やして貰おうと思って今本社にメール書いてるのよ。正社員じゃなくてもパートや若いバイトの子でもいいしね。ほら、開店準備や閉店準備って一人じゃ忙しいじゃない?」中島はPCを打つ手を止めて言った。自分を心配してくれているという思いが込められている事に気付いた千尋は嬉しい気持ちで一杯にり、お礼を述べた。「ありがとうございます。店長」「いいのよ、気にしなくて。それよりも青山さん、今夜は家まで送ってあげるわ」「え? いいんですか?」「いいのいいの。どうせ私は車で来てるんだし、乗せて行ってあげる」「でも……」その時。自動ドアの開く音とチャイムが店内に鳴り響いた。「あ。ほらお客さん来たわよ。さ、閉店まで後少し。頑張らなくちゃ」「はい。私が対応しますので店長は今の仕事続けてて下さい」中島に言い残すと千尋はそ
ガラガラガラガラ……シャッターを閉める音が店内に鳴り響く。千尋は鍵をかけると中島が声をかけてきた。「それじゃ帰ろうか? あ……でも何か買い物ある? スーパーに寄る?」「でも……ご迷惑じゃ……」ヤマトのリードを握りしめる千尋。「私もね、スーパーで買いたいものがあるんだ。今日はね、フライのお惣菜の特売日なのよ! しかも広告が入ってたんだけど、新商品の発泡酒が発売されたから、買って試してみたくて」中島は千尋と違い、料理はあまり得意ではない。もっぱら、コンビニ弁当かスーパーの弁当、総菜と言う食生活だ。本当は外で飲んで帰りたいけど、車で来てるからね。……と言うのが、もはや口癖となっていた。「それじゃ、お願いします」「気にしなくていいって。じゃ、今店の前に車回してくるわね」中島が車を取りに行くと千尋はヤマトの前にしゃがみ、頭を撫でなた。「皆、私を心配してくれていい人ばかりだよね。で……も本当に誰なんだろう。お爺ちゃんもいないあの家に1人きりなのはやっぱり怖いよ。ヤマト、絶対に私の側から離れないでくれる?」ヤマトは千尋の目をじっと見つめながら黙って聞いていた。「お待たせー」ワンボックスカーに乗った中島が戻ってきて窓を開けて手を振る。「青山さんは助手席に座って。ヤマトは…‥後部座席でいいかな?」「はい、それで大丈夫です」「うん、じゃあ乗って乗って」**** 車で走る事、約10分。大型スーパーに到着するとヤマトを車に残し、2人のショッピングが始まった。「あの、店長さえ良ければ私の家で一緒に食事しませんか?」ショッピングカートを押しながら千尋は中島に尋ねた。「え? お邪魔していいのかしら?」「はい、むしろ一人になるのは……ちょっと……」最後の言葉がしりすぼみになってしまった。「うん、それじゃ決まりね」 それから約40分後、食材やらお惣菜を大量に買い込んだ2人が車に戻ると、待ちくたびれたのかヤマトが眠っていた。「あらま、眠ってるね」「はい、家に着いたら起こすのでこのまま寝かせておいて貰えますか?」「勿論かまわないけど、それじゃ行きますか」**** 家に到着すると、千尋はすぐにヤマトを起こして家に入らせた。「お邪魔します……。わあ~すごく綺麗にしてるのね。青山さんの家に比べたら、私なんて汚部屋暮らしかも」中島は感心
彼女の様子がおかしい。何をそんなに怖がっているのだろう?もしかして君を脅かす人間がいるのかい?あいつか?あいつのせいなのか?だとしたら排除しなければ……****—―0時半「クソッ! 何なんだよ! お前一体誰なんだ!? 毎晩毎晩人の携帯に無言電話かけてきやがって!」里中は無言の相手に電話越しに怒鳴りつけていた。折角眠っていた所を例の無言電話で起こされてしまったので里中の怒りは沸点に達していたのだ。無言電話がかかってきて早1週間。連日連夜何十回も無言電話がかかってくるので、もういい加減我慢の限界だ。スマホの電源を切ってしまえば良いのだろうが、それでは相手に負けを認めてしまうようで嫌だった。男の意地である。「いいか!? これ以上無言電話をかけてくるなら発信履歴を割り出して警察に通報してやるからな!!」「……るな」すると初めて受話器から声が聞こえてきた。「あ? 何だって?」「……ちか……よるな……」「はあ? 近寄るなって何のことだ!?」すると今度ははっきりと声が聞こえた。「彼女に近寄るな!!」ボイスチェンジャーでも使っているのか、耳障りな大声が耳に飛び込んでくる。「おい? 何言ってるんだ? 彼女って誰の事だ!?」プツッ!そこで電話は切れてしまった。(何なんだよ……。彼女に近寄るなって……)そこで、里中は電話がかかり始めた先週のことを思い出してみた。(確か、あの日は千尋さんが病院にやってきた日で、俺は遅れて来た彼女を駐車場まで迎えに行って、その時に視線を感じて……)ふとある考えが浮かんだ。(もしかして、あの無言電話の相手は千尋さんの彼氏……? いや、待てよ。それならこんなまどろっこしい真似しないで、はっきり自分が彼女の彼氏だからと俺に宣言すればいいはずだろう)里中は不吉な予感がした。(あの無言電話の相手……ひょっとしてストーカー? 大体何で俺の携帯番号を知ってるんだ? 俺のことも千尋さんのことも知ってる人間? だとしたら病院関係者だろうな……。とにかく、今日は千尋さんが病院に来る日だ。彼女に最近誰かに付きまとわれてないか聞いてみよう)……結局里中はこの日、一睡もすることが出来なかった――****—―翌朝「え? 千尋さん今日は来ないんですか?」いつも通り出勤した里中は主任から、代理で別の人物が生け込みに来ること
「おい、千尋ちゃん暫くここに来ないんだって? 体調が悪いらしいじゃないか。早く良くなるといいな。患者さん達もヤマトに会えるの楽しみに待ってるし」患者のマッサージを終えて片付けをしていた里中に先輩の近藤が声をかけてきた。「え? 千尋さん具合悪いんですか!? 誰にその話聞いたんですか!」里中は驚いて近藤に詰め寄る。「お前、聞いてないのか? あ~そっか。千尋ちゃんの代理の人がやってきた時、お前患者さんの対応中だったな。ほら、あの人に聞いたんだよ」近藤の示した先には中島が花を飾っている所だった。「あの人が店長?」「うん、俺よりは年上だろうけど中々美人だよな~。ま、俺の彼女には負けるけどな。何たって笑顔が可愛いし……」里中はそんなのろけ話を上の空で聞いていた。(どうする、今千尋さんの具合の様子をを尋ねてみるか? でも正直に答えてくれるだろうか……)そこまで考えて、里中にある考えが閃いた。****「よし、終わり。うんうん、我ながら完璧な仕事ね」中島は自分が仕上げたフラワーアレンジメントを満足気に眺めた。秋らしく、暖色系の色でまとめてピンポイントに赤や紫の色の花を添えてみた。仕事も終了したので責任者に声をかけて帰ろうとした時に、突然中島は声をかけられた。「すみません。『フロリナ』の方ですよね? 少しよろしいですか?」中島は声をかけてきた青年を見た。(あら、随分若いスタッフね)「はい。何か御用ですか?」「俺、里中って言います。さっき同僚の先輩から千尋さんの体の具合が悪いって聞きました。それで、ちょっと気になる事があって……」(え? 何この男?)突然千尋のことを尋ねてきたので身構えると、里中が慌てて弁明した。「あの、実は1週間程前に千尋さんと駐車場に一緒にいた時に強い視線を感じたんです。その日の夜から毎晩俺の携帯に無言電話がかかってくるようになって、昨夜とうとう相手がしゃべったんですよ。彼女に近寄るなって。だから千尋さんに何かあったんじゃないかと心配になったんです」その言葉を聞いて中島は眉を顰めた。「あなた……失礼ですが、うちの青山とはどのような関係ですか?」「は? 関係?」「彼女と交際してるんですか!?」中島は口調を強めた。「とんでもないですよ! 病院で知り合った、友人関係でもない只の顔見知りですよ」「それじゃ、青山さんはあ
「この書類、新しい契約書になります。よろしくお願いします」「どうもありがとう」契約書を受け取ると中島は帰って行った。(本当は自分でこの契約書を持って千尋さんに会いに行きたかったけど、怯えさせてしまうかもしれない。それよりも俺のやらなくちゃならないのは犯人を見つけ出すことだ。一体どうすればいいんだ……?)具体的な考えはまだ何も浮かんでこなかったが、あまり時間はかけたくない。(取りあえず、共通の知り合いにかまをかけてみるか……?)気持ちを新たに、里中は仕事に戻って行った――**** 休憩時間の合間を縫って、里中はさぐりを入れてみることにした。けれども男性スタッフ全員が妻帯者であったり、彼女を持っていた。しかも全員が里中が尋ねもしないのに、のろけ話をしてくるので話にならない。(参ったな……。ここのスタッフかと思っていたのに空振りだったみたいだ)「……コーヒーでも買って来るか」 自動販売機の前でコーヒーを買おうとしていると背後から声をかけられた。「今日もコーヒー買うのか? 里中」振り向くと、そこにはオペレーターの長井が立っていた。「そうか、今日も入れ替え日だったのか」(そう言えば長井もここに出入りしている人間だから、千尋さんの顔を知ってるかもしれないな)長井の顔をじ~っと見た。「な、何だよ。男に見つめられる趣味は無いぞ」「なあ、長井……」「ん? 何だ?」「お前彼女いる?」「いきなり何言い出すんだよ。まあ、正直に言うと現在募集中かな」「ふ~ん。そうか」(長井は彼女がいない。可能性はあるな……。でもストーカーするタイプには見えないけどな)「突然どうしたんだよ? そういうお前はどうなんだ? 彼女いるのか?」「そんなのいねーよ。ま、今は仕事で精一杯だからな」(本当は千尋さんが俺の彼女になってくれたらなー)里中はお金を入れて自販機の缶コーヒーのボタンを押した。ガコン!出て来たコーヒーを取り出す。「それじゃ俺もう仕事に戻るわ。じゃあな」手をヒラヒラ振り、里中は缶コーヒーを持って職場に戻って行った――****ーー17時「お疲れさまでしたー」退勤時間になり、里中は帰ろうとすると野口に声をかけられた。「里中、『フロリナ』に行くんだろう?」「いえ、行くのやめにしました。今日代理で来た方に書類渡しましたから」「そうなの
フードを被った男がシャッターの下りた<フロリナ>の前に立っていた。警察もあの女も邪魔だ……。彼女から何とか引き離さなければ…。**** 警察官による定期的なパトロール、そして中島が一緒に家に居てくれる為、千尋は以前よりも穏やかに過ごせるようになっていた。毎日ポストに自分の隠し撮りされた写真や手紙が投函されていることは中島から聞いていたが、目に触れさせずに警察に提出してくれている。中島には感謝してもしきれないので千尋はお礼を兼ねて、毎日腕を振るって料理を作っていた。「店長、今日はホワイトソースのチキングラタンにオニオンスープ、それにミモザサラダのフレンチドレッシング和えですよ」「すご~い! まるでレストランのディナーみたい!!」中島は目をキラキラさせて大喜びしている。2人の賑やかな食卓の足元ではヤマトが尻尾を振りながら餌を食べていた。「そんな、大げさですよ。本当に店長には感謝してるんです。周囲には警察の人が巡回してくれているし、店長も家に泊まり込んでくれていますから。私とヤマトだけだったら怖くて家にいられませんよ。どうぞ、食べて下さい」中島は熱々のグラタンを口に運んだ。「美味しい! こんなにおいしいグラタン初めて食べるわ!!」「良かった~。お口に合ったみたいで」「そう言えば、今日病院に行った時に里中さんていう人に会ったのよ。ひょっとしてストーカー相手を突き止められるかもって言ってたわ」「え? 本当ですか!?」「ええ。彼の所には毎晩無言電話がかかっていたそうよ。彼が言うには自分のことも青山さんのことも知っている人間が犯人じゃないかって言ってたわ」「私と里中さんを知ってる人物……?」千尋には全く心当たりが無かった。「うん、だから犯人が見つかるのも時間の問題かもよ?」「それならいいんですけど……」「大丈夫だってば! 全て解決したら彼も誘ってお酒飲みに行きましょ?」「はい!」(良かった、青山さん。少し元気が出たみたいで)この後、2人はいつも以上に会話が弾み、楽しい食事の時間を過ごすことが出来たのであった。****――21時過ぎ2人人で食事の後片付けをしていた時に突然「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。「え? だ、誰?」千尋はビクリとなった。「大丈夫よ、青山さん。私が玄関の様子を見てくるから絶対出ちゃ駄目よ
中島と警察官がパトカーで店まで出かけた後、残った警察官は千尋に言い聞かせる。「いいですか? 戸締りをしっかりして一歩も家から出ないようにして下さい。私が外で待機していますので安心して下さい」「はい、ありがとうございます」千尋は警察官が門の外へ出ると、鍵をしっかりかけたが身体の震えが止まらない、そこへヤマトがやってきた。「ああ、ヤマト」千尋はヤマトをしっかり抱きしめた。「私を守ってね……」ヤマトは黙って頷く。その時――ガチャーンッ!!遠くで何かガラスのようなものが割れる音が聞こえて悲鳴があがった。バタバタバタと走り去っていく音が聞こえ……やがて音は遠ざかり、辺りはまた静けさを取り戻した。「な、何!?」千尋は飛び上がり、耳を澄ましたが何も聞こえない。5分程経過した時に、玄関の方でガチャガチャと音が聞こえた。「――!」千尋は恐怖で身体が動かない。「ウウ~ッ!」ヤマトが立ち上がり、今まで一度も聞いたことがないような低い唸り声をあげて玄関の方を睨み付けている。「ヤ、ヤマト……?」—―ガチャッ……玄関の開く音が聞こえた。「!!」千尋は思わず叫びそうになり、両手で口を押えた。ギシッギシッ……廊下を進んでくる足音が聞こえる。(いや……誰……? 怖い……!!)その時。「ガウッ!!」ヤマトが鋭く吠え、廊下を飛び出した。「うわっ!」直後、はっきりと聞きなれない男の叫び声が聞こえた。「くそっ! は、離せ!!」ヤマトが侵入者と格闘しているようだが千尋は恐怖で動けない。バタバタバタッ!!「ワン! ワン! ワン! ワンッ!!」走って逃げる足音とヤマトの吠える声が完全に聞こえなくなるまで、千尋は一歩も動くことが出来ずにいた。やがて静かになったところで千尋は我に返った。「ヤマト……?」玄関へ向かうと、ドアは開け放され、ヤマトの姿も侵入者の姿も見えなかった。「ヤマト……? ヤマト!!」玄関を飛び出すと、慌てて走ってきた警察官と鉢合わせした。「一体、何があったんですか!?」千尋は警察官に詰め寄った。「それが、近所で石で窓ガラスを割られる事件が発生したんですよ。急いで様子を見に行って話を聞き終わった後、こちらへ戻ってきたばかりなんですが……この様子だと何かあったようですね……」警察官は千尋のただならぬ様子に気付いた。
「青山さん……?」中嶋は千尋の家に戻ると、俯いて床に座り込んでいる千尋を見つけた。「店長……。ヤマトが……」中島は何も言わずにギュッと千尋を抱きしめた。既にヤマトが千尋を守った事も聞かされているのだ。「大丈夫、ヤマトが見つかるのを信じて待ちましょう?」千尋は黙って頷いた。しかし、この夜ヤマトが戻ってくることは無かった――**** —―翌朝里中は出勤時、守衛室をチラリと覗いて見たが話しかけてきた男は素知らぬ顔で座っている。(……妙な男だな……)病院のロッカールームで先程の守衛の男のことを思い出してみた。(おかしい……何故昨夜は無言電話がかかってこなかったんだ……?)ぼんやり考えていると、ポンと肩を叩かれた。「おはよう、里中」 振り向くと先輩の近藤だった。「なあ、知ってるか? 昨夜<フロリナ>でボヤ騒ぎがあったって」「え!? 何ですか? その話は!?」里中は嫌な予感がした。「さっき俺も聞いたんだが、知り合いがあの花屋の近くに住んでいて夜の9時過ぎ……だったか? シャッターの前に段ボール箱が置かれて燃やされたらしいぞ? でも大した被害は無かったらしいけどな」「そんな……」(ひょっとすると昨夜俺に無言電話がかかってこなかったのは、あのストーカーが燃やしたのか? 恨みとかで……? でもそれだけじゃ説明がつかない……)「おい、どうした? 里中? 遅刻するぞ?」近藤が声をかけてきた。「あ、いえ。何でもないです!」里中は慌ててユニフォームに着替え始めた—— リハビリステーションに行くと何故か騒がしい。見ると主任が数名の男達に取り囲まれているのである。「あれ? 一体何があったんだ?」一緒にやってきた近藤は不思議そうに眺める。その時、主任がこちらを見た。「里中! ちょっとこっちへ来てくれ!」「はい、何でしょう?」呼ばれて行くと、50代位の男性に声をかけられた。「里中さんですね? 我々はこういう者です」取り出したのは警察手帳である。「!」「少しお話したいことがあるので、お時間いただけますか?」里中は主任の顔を見ると、黙って頷かれた。「はい……大丈夫です」「ありがとう。ではついてきてください」 病院の外に連れ出されると入り口にはパトカーが止まっていた。「あなたを案内したい場所があります」パトカーに
渚と祐樹が同時に里中の方を見た。「何だ、お前……?」祐樹は渚を放すと里中を見て首を傾げる。「間宮は俺の友人だ。一体何をしてるんだ? お前こそ、誰だ?」「里中さん……? どうしてここに?」渚は驚い里中を見つめていた。「人に物を尋ねる時はまず、自分から名乗るべきじゃないか?」祐樹はフンと鼻を鳴らす。「俺は里中裕也。お前は?」「橘祐樹。渚の幼馴染だ」「え? 間宮の幼馴染……本当なのか?」「嘘言ってどうするんだよ。疑うなら渚に聞けよ」祐樹は渚に視線を移した。「うん。祐樹は僕の幼馴染だよ。しばらく会っていなかったんだけど、この間偶然再会したんだ」「勝手にいなくなったのはお前の方だろう? 渚。立ち話も何だ、どこか場所変えるぞ」祐樹の言葉に、渚は顔を曇らせた。「あの……僕はもう帰りたいんだけど……」「駄目だ、話は終わっていない」首を振る祐樹に里中は尋ねた。「……俺も同席してもいいか?」「好きにしろよ」**** 3人は国立公園の中に併設されているカフェにいた。丸いテーブルに男3人座って互いの様子を伺っている。「「「……」」」暫く3人は無言だったが、渚が口を開いた。「ところで、里中さん。どうして今日はここにいたんですか?」急に話を振られて焦る里中。(う……ヤバイ。理由を考えてなかった。ど、どうしよう……)その時、里中の眼に国立公園の温室で開催されているサボテンフェスタのポスターが目に入った。「お、俺はサボテンを買いに来たんだ! ほら、あそこにもポスターが貼ってあるだろう?」「へえ~里中さん、サボテンが好きだったんだ。ちっとも知らなかったよ」「おう! そうだ、知らなかっただろう?」しかし、自分で言い出したものの里中は後悔していた。(あ~何がサボテンだ! もう少しまともな嘘つけば良かった!)「サボテンねえ……? 里中……だっけ? お前らはいつから知り合いなんだ?」祐樹は疑しい目で里中に尋ねる。「俺達は知り合ってそんなに経っていない。ここ2か月ってところだ」「僕たちは同じ敷地内で働いているんだ」「敷地内? それってお前も飲食店で働いてるってことか?」「いや。俺と間宮が勤務しているのは病院だ。俺は理学療法士で間宮は病院内にあるレストランで働いてる」「へえ~。レストランで働いてるって話は本当だったんだな?」「
里中は駅の改札付近で人混みを避けるように渚を待ち伏せしていた。自分がストーカーまがいの行為をしているのは自覚があったが、どうしても渚が話していた電話の相手が気になってしかたなかったのだ。(もし、今日会う相手が女だったら偶然を装って二人の前に現れて関係を問いただしてやる)そんなことを考えていると、渚が駅に現れた。自動改札機を潜り抜け、ホームへと降りていく。里中も慌てて後を追った。車内は混雑していて、渚は吊革に掴まって窓の外を眺めている。幸い人混みに紛れて里中には気が付いていない様子だ。(確か、国立公園って言ってたような気がするけど……。やっぱり公園で会うなんて相手は女か?)「次は国立公園前~国立公園前~」電車のアナウンスが流れ、駅に到着すると渚は素早く降りた。里中も見失わないように急いで降りると、物陰に隠れながら後を付けていく。**** 国立公園に着くと、渚は入園切符を買って中へと入って行く。里中も同じように切符を買うと後に続いた。渚は公園の真正面にそびえ建っている時計台に行くと、その真下に設置してあるベンチに腰を下ろした。それを遠目から見つめる里中。「ふ~ん……あそこが待ち合わせ場所なのか。相手はまだ来ていないようだな?」そこへ、さほど年齢が変わらない若者が渚に向かって歩いてくるのが見えた。「うん? もしかしてあの男が待ち合わせした人物なのか?」里中は見つからないよう渚に近づき、凝視した。男は茶髪にダウンジャケットを着ている。****「よお、渚。悪い、待ったか?」祐樹は渚の隣に腰かけた。「いや、僕もついさっき来た所だから大丈夫だよ」「ふ~ん……。ならいいけどな」「それより僕に話って何? わざわざこんな場所まで呼び出すなんて、そんなに大事な話なの?」「いやあ。ただ俺はもう一度、どうしてもお前とじっくり話をしたかったから呼び出しただけさ」「え? まさかそれだけで僕を呼び出したの? だったら帰るよ」立ち上がろうとする渚を祐樹は慌てて腕を掴んで引き留めた。「まあいいから座れって。う~それにしてもお前の言葉遣い慣れないなあ……ナヨナヨした話し方で気持ち悪いぜ」「……」しかし、渚は返事をしない。そこで結城は、ゴホンと咳払いした。「お前、女と暮してるて言ってたよな? 本当に妙な女じゃないだろうな? 大体昔からお前は女を見る
渚が電話で話をしている様子を里中は偶然目撃していた。丁度使用済みのリネン類をカゴに入れて中庭から入ってきた業者に手渡している時に、渚が電話で会話している声が風に乗って聞こえてきたのである。(え……? 明日11時に誰かと会うのか? う~ん……気になる!)里中は業者にリネンを全て手渡した後に自分のシフトを確認すると、近藤が休みになっている。(よし、代わって貰おう!)その後、昼休憩から戻ってきた近藤を拝み倒して何とか里中は翌日の休みをもぎとったのだった——**** その日の夜―—「ごめん、千尋。僕明日は早番だったのが遅番に変更になったんだ。だから帰り遅くなってしまうかも」二人で向かい合って食事をしている時に渚が言った。「え? そうだったの? 随分急な話だね」「うん、そうなんだ。どうしても遅番の人手が足りないらしくて……本当にごめん。明日は二人で仕事帰りに映画を観に行く予定だったのに」渚は頭を下げてきた。「大丈夫だよ、だって明日行こうと思ってた映画はまだ始まったばかりだから当分の間は終わらないもの。また今度一緒に行けばいいよ」「でも……」「気にしなくていいってば。私も明日は帰宅したらすることを思いついたから」「え? 何思いついたことって?」「フフフ……。内緒。今度教えてあげる」千尋は意味深に笑った——****——翌朝 今朝の渚も早起きだった。千尋が着替えをして起きてくると、もう朝食の準備をしていた。「おはよう、渚君。今日も早いね。たまには私が準備するよ?」「いいんだよ、だって僕が千尋の為にしてあげたいだけなんだから気にしないでっていつも言ってるよね」今朝のメニューは久しぶりの和食だった。大根と油揚げの味噌汁に、出汁巻き卵に納豆、漬物がテーブルの前に座った千尋の前に並べられる。「うわあ、今日も美味しそうな朝ご飯だね」千尋は笑顔になる。「うん。さ、食べよ?」渚も千尋と向かい合わせに座ると、二人で手を合わせた。「「いただきます」」そしていつも通りの食事が始まった……。「渚君、今日シフト変更になったんだものね?」食事をしながら尋ねる千尋。「うん。遅番だから少しゆっくり出るよ。その代わり帰りは遅くなっちゃうんだけどね」「それじゃ今夜の夜ご飯は私が作るから楽しみにしていてね。え~と……何がいいかな?」「僕は千尋が
「はあ……」 里中はリハビリステーションに貼ってあるカレンダーを見てため息をついた。「どうしたんだ? カレンダー見て、ため息なんて」近藤が声をかけてきたが、あることに気付いた。「ははあん。そう言えばバレンタインがもうすぐだったよなあ? あれ~何曜日だったけ?」「……金曜日ですよ」「そうだったっけな! う~ん。金曜日か……。残念だったな。まあ、元気出せ」近藤は里中の背中をバシバシ叩いた。「先輩、痛いです……。そういう先輩はどうなんですか? って聞くまでも無いですよね」「まあな~毎年バレンタインは彼女からの手作りチョコを貰ってるな。可哀そうな後輩の為に1個位御裾分けしてやてもいいぞ?」「結構ですよ、せいぜいそうやってのろけてればいいじゃないですか」里中はプイと背中を向けると備品の点検に行った。****「ねえ、千尋ちゃん。去年は誰にもバレンタインにプレゼントあげていなかったみたいだけど、今年は渚君にあげるんでしょう?」渡辺が客足が途絶えた時に千尋に話しかけにきた。「そうですね~。渚君にはいつもお世話になってるし、バレンタインのプレゼントは勿論あげるつもりですよ。あ、勿論渚君以外にも他の男性達にもあげる予定です」「ああ、義理チョコね?」「はい。原さんやリハビリステーションのスタッフの方々にもあげる予定です。でもリハビリの人達は人数が多いから、手作りチョコを箱に入れて皆さんでって形にしようかと思ってます」「でもバレンタインの日は病院に行く日じゃないけど?」「そらなら大丈夫です。メッセージカードを添えて渚君に持って行ってもらうようにお願いします」けれど——渚にだけは特別にバレンタインのプレゼントを用意しておいた。3週間以上前から千尋は内緒で渚の為に手編みの手袋を編んでいたのである。あと少しで完成する予定だ。(渚君、喜んでくれるかな……)そのことを考えると、自然と笑みがこぼれた。「なあに? 青山さん。楽しそうな顔して」そこへ中島が会話へ割って入ってきた。「そうよ、どうしたの千尋ちゃん。あ、もしかして……渚君のこと考えてたでしょう?」「そ、そんな……。私、笑ってましたか?」「「笑ってた」」中島と渡辺が声を合わせた。「ま、いいんじゃない? 二人は恋人同士なんだから」中島がサラリと言った言葉に千尋は胸がズキッと痛んだ。
「もしもし…」電話口から祐樹の声が聞こえてきた。『あ、渚! やっと電話に出たな? さっきは何で電話に出なかったんだよ?』「電話がかかってた時、居候相手が側にいたからだよ」『何だよ、別に構わないじゃないか。それ位……ん? 待てよ。もしかして居候相手って女か?』「……うん……」『お前、まだ懲りてないのか? あんな目に遭ったって言うのに。まだあの女と別れてなかったのか? ったく……あんな女の一体どこがいいんだか俺には理解出来ないぜ』「違う、全然別の人だよ」『そうなのか? まあ俺が口出ししてもしょうがない話だけどな。付き合うならもっとまともな女を選べよ』「彼女は祐樹が思っているような人じゃないよ」『まあ、いいさ。ところでお前のメールアドレス聞くの忘れたから、今から俺のアドレス教えるから必ずメールよこせよ。俺のアドレスは……』「ふう」ようやく渚は電話を切った。そこへ風呂から上がった渚の所へやってきた。「あ、千尋。お風呂あがったんだね」「うん、ごめんね。先にお風呂入っちゃって。渚君もお風呂どうぞ?」「そうだね。それじゃ入ってくるよ」 渚が風呂に入りに行くと、千尋は録画しておいたドラマを観るためにテレビをつけてソファに座った。近くには渚の携帯が置いてある。その時、突然渚の携帯が鳴った。「あれ、さっきも携帯なってたよね……?」悪いとは思ったが着信の相手を見てみた。「橘……祐樹? 誰だろう? 職場の人かな……?」携帯電話はしつこく鳴り続けている。(でも勝手の人の携帯電話に出るなんて絶対にやっては駄目なことだからね)千尋はそう自分に言い聞かせ、そのままにしておいた。その後、何度も携帯は鳴り続けた。(どうしよう……? もしかしたら急ぎの用なのかなあ? 渚君に知らせてきた方がいいかな? でもお風呂に入ってるし) その時、渚が風呂から上がってきた。「あ! 渚君。さっきからずっと何回も携帯に同じ人から着歴があるんだけど」「え……? また?」渚はうんざりした表情を浮かべる。「またって……一番初めにかかってきた電話も同じ人なの?」「うううん違うよ。でも千尋がお風呂に入ってるときに彼から電話かかってきたから話はしたよ」「またかかってくるかもしれないから、渚君から電話してみたら?」「いや、大丈夫だよ。大した用事じゃないと思うから」「でも
「お仕事お疲れ様、千尋!」千尋が店を出ると笑顔で渚が待っていた。「いつも迎えに来てくれなくても大丈夫なのに」「駄目だよ、夜の一人歩きは危ないから。何より僕が心配で家で待ってなんかいられないよ」渚は首をブンブン大袈裟に振る。「それじゃ、帰ろう?」いつものように渚は手を差し出してくる。「う、うん……」千尋は遠慮がちに手を伸ばすと、渚は当然のようにしっかりと指を絡ませて握ってくる。「今夜はねえ、千尋が大好きなチーズフォンデュだよ。美味しそうなフランスパンも買ってきたから。後、美味しそうなかぼちゃが売ってたからパンプキンスープも作ったんだよ」パンプキンスープは千尋が大好きなスープだった。「うわあ、本当? 今からとても楽しみだな~。あ、ところで渚君が買いたがってた家電は買えたの?」「それが……これだって言うのが中々見つからなくて結局何も買わないで帰って来ちゃったよ。今度は二人で一緒に見に行かない? なるべく千尋のお休みの日に僕も休みを取れるように調整するから」「うん、そうだね。それもいいかも」二人は笑顔で手を繋いで家に向かう。その姿はまるで恋人同士か、新婚夫婦のようだった――****「ああ、美味しかったあ。やっぱり渚君は料理が上手だね。ご馳走様」渚の手作り料理を食べ終えた千尋は、すっかり満足していた。「片付けは僕がやるから千尋はお風呂入っておいでよ」渚が食器を片付けながら声をかける。「そんな、渚君が料理を作ってくれたんだから片付けは私がやるよ」「いいから、いいから」その時、突然渚のスマホが鳴った。「? 珍しいね。渚君のスマホが鳴るなんて」「うん、そうだね」渚はスマホをチラリと見たが電話に出ようとしない。その顔は若干青ざめている。「出なくていいの?」「うん。いいんだ。迷惑電話かもしれないし」「それもそうだね」「ほら、千尋はお風呂だよ」渚はバスタオルとタオルを千尋に手渡した。「う・うん……。それじゃ入って来るね」千尋は着替えとバスタオルを持って、風呂場へと向かった—―「ふ~……いいお湯」お湯につかりながら千尋は渚のことを考えていた。(何だかあの電話の後、様子がおかしかったようにみえたんだけどな……)千尋は渚のことが気がかりでならなかった――その頃渚は食器を片付けながら、スマホを気にしていた。すると、案の
「あ……」渚は咄嗟に身を翻して逃げようとした。「おい! 待てよ!」茶髪の若い男はあっという間に渚の腕を掴んで捕まえた。「何で逃げようとするんだよ。半年以上も行方をくらましておいて。俺が今までどれ位お前のこと探し回ったのか分かってるのか? スマホも繋がらない、アパートに行っても解約されていたし」渚は俯いたまま黙っている。茶髪の男はため息をついた。「おい、ちょっと顔かせよ」そして渚の腕を掴んだまま歩き出した。**** 渚と茶髪の男はファミレスの椅子に向かい合って座っていた。冷えて生ぬるくなったコーヒーが2つテーブルに置かれている。渚はテーブルの下で両手を握りしめて俯いていた。男は腕組みをして渚を睨んだ。「おい、渚。何とか言えよ。さっきから黙ってばかりで。お前、もしかして俺のこと忘れちまったのか?いや、そんなはずないよな? 俺を見て逃げ出そうとしたんだから」それでも渚は黙っている。「う~ん。どうもさっきから変な感じがするんだよな……。俺の知ってる以前のお前と今のお前、全く雰囲気が違って見えるんだが……。お前、渚に変装した偽物か?」「偽物じゃ……ないよ」ようやく渚は口を開いた。「偽物じゃ無いって言うなら俺の名前言えるはずだ。俺の名前は?」「橘……祐樹」「言えるなら、渚で間違いないかもな。だけどな! 絶対お前おかしいぞ? そんなキャラじゃ無かっただろう? なんかビクビクしてるし、本来のお前は喧嘩っ早くて血の気の多い男だったじゃないか。目つきだって凄く悪かったぞ?」「実は僕は……一部記憶が無くなってしまったんだ。どうして記憶を無くしたのかも覚えてなくて」声を振り絞るように渚は言った。「はああ? 僕だあ!? やめてくれよ! お前から僕なんて言葉を聞くと鳥肌が立ってくる!」祐樹は両肩を押さえて震えた。「ごめん……」「だ~から! そんな言葉遣いするんじゃねえ!」祐樹はドン! とテーブルを叩いた。「もう、この話し方が身について今更変えられないよ……」「あ~っ! もういい! 大体お前記憶が欠けてるんだもんな。仕方が無いか」祐樹はため息をついた。「あれ? そういやお前、あの事件がきっかけで仕事辞めたんだよな? それで部屋も引き払ったのか?」「う、うん。まあそんなところかな?」「じゃあ、今は何処に住んでるんだよ?」「知り合
運ばれてきた料理を3人で食べると千尋は帰って行った。「今日は悪かったな? 今度は二人きりで食事出来るといいな?」職場に戻りながら近藤が里中に声をかける。「何言ってるんすか? 先輩が気を利かせてあの場から居なくなってしまえば二人で食事出来たのに」「ひっでえなあ、それが先輩に対する口の利き方かあ?」わざとお道化たように話す近藤を里中は苦笑いしながら見ていた。**** その後――千尋と渚は約束通り、二人が休みの日は色々な場所へと出掛けた。動物園、映画、遊園地、ドライブ……渚が行ってみたいと言っていたありとあらゆる場所へと足を運んだ。渚は始終楽し気にしていたが、何故か寂しげに見える姿が増えてきた。けれど千尋はそのことには一切触れなかった。(きっと時がたてば、渚君の方から話してくれるはず……)そう信じて疑わなかったのである。 ――2月のある日のこと「ねえ、渚君。今日はお休みでしょう? 私は仕事だけど何か予定あるの?」千尋が朝食を食べながら尋ねた。「え? うううん。特には無いよ。しいて言えば……家電製品でも見てこようかなと思ってる」「何か買いたい家電製品あるの?」「うん、ブレンダーかミキサーでもあれば便利かなって。あ、でも買うかどうかはまだ未定だけどね」「そうなんだ。良いのが見つかるといいね」「そうだね……」渚は曖昧に笑った。 仕事のない日はいつもそうしているように渚は千尋を店の前まで見送った。「それじゃ、仕事頑張ってね。今夜のメニュー楽しみにしておいてね」「ありがとう、それじゃまた後でね」千尋は笑顔で手を振ると通用口から店へ入っていく。その姿を見送ると渚は駅へ向かった——**** バスを乗り継ぎ、渚は市内一大きな総合病院の前に立っていた。千尋が編んでくれたマフラーで口元を隠し、帽子を目深に被ると渚は病院の中へと入って行った。渚は入院病棟に来ていた。辺りを見渡し、人がいないのを見計らうと個室の病室へと入って行く。その個室には若い男性が眠り続けていた。ベッドの柵に取り付けられているネーム札には年齢も名前も記入がされていない。「……」拳を握りしめ、黙ってその患者を見下ろしていると、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。「!」慌ててロッカールームに入って、隠れる。けれど足音は遠ざかって行った。入り口に耳を付け
それから暫くして千尋がリハビリステーションにやってきた。野口と新年の挨拶を交わしている。丁度手が空いていた里中は主任が去り、千尋が一人になると近づいた。「おはよう、千尋さん」「あ、おはようございます。里中さん、新年明けましておめでとうございます」千尋は頭を下げた。「あ、そうだったね。明けましておめでとう」里中も頭を下げた。「あの……千尋さん」「はい、何でしょう?」「実はこれなんだけど……」里中はポケットから紙袋を取り出した。「?」「俺、年末年始里帰りしていて千尋さんにお土産を買って来たんだ。もし良かったら受け取ってもらえないかな?」そして千尋に紙袋を手渡した。「私にですか?」里中は黙って頷いた。「今見ても?」「ど、どうぞ」中から出て来たのは色鮮やかなパワーストーンのブレスレットだった。千尋は目を見張った。「うわあ……綺麗。でも、こんな高価なもの頂くわけにはいきません」「あ、見た目は高そうに見えるけど、そんなんじゃないから。遠慮しないで受け取ってよ。ただのお土産なんだから」ハハハ……と笑うが、本当は気軽に渡せるような金額では無かった。(く~っ。今月は食費削らないとな……。だけど千尋さんの喜ぶ姿を見れたからいいか)「里中さん。お礼に今日のお昼ご飯、ここのレストランでご馳走させて下さい」「い、いや、何言ってるんっすか! 女の人に男がご馳走してもらなんて変ですって!」「でも、それじゃ私の気が済まないんです」千尋は食い下がる。(でも昼飯代浮くし、何より千尋さんと一緒に食べる事が出来るなら……)「それじゃ……よろしく」里中は照れくさそうに笑った——****「――で、何で先輩までここにいる訳ですか?」里中は面白くなさそうに近藤を見た。「まあまあ、そう言うなって。俺は先にここに来ていた、そしてお前たちがやってきた」近藤は得意げに言う。「はあ」里中は興味なさげに返事をする。「そして生憎、満席。けれど、俺が座っているテーブルは偶然にも2つ席が空いていた。そこで、二人をこの席に呼んだと言う訳だ」「ありがとうございます、近藤さんのお陰で席を確保する事が出来ました」千尋は嬉しそうに礼を述べる。「チエッ」里中は誰にも聞こえない様に小さな声で舌打ちをした。折角二人で食事が出来ると思ったのに、これでは何の意味も無